2010年1月17日日曜日

ハウスオブジョイのこと

ハウスオブジョイ

 今回、ハウスオブジョイの創設にあたっての私(烏山)が思ったことや子供たちのバックグランドなどをこのページを通して皆さんにお伝えして行こうと思いますので時間がある方は読んでください。また感想なども在りましたらメールをください。出来るだけアップをしていきたいと思っています。     烏山 逸雄 2月6日 2006年

①ベンジャミンの事(生きることは愛すること)

その朝目がさめてから新聞に目を通していた。1991年7月であった。東京に本社のあるプラスチックの商社に勤めて6年が経過し、台湾での駐在員生活も2年が経とうとしていた。フィリピン出身のベンジャミンの死刑判決記事がその日の新聞に載っていた。彼は台湾に観光ビザで入国し、そのまま5年間もオーバーステイ(不法滞在)をしていた。小さな町工場で働いていたが、そこには彼のガールフレンドも勤めていた。彼のパスポートはボスが管理していた。実は彼らが勝手に工場から逃げないようにとの彼のボスの策略があった。ある日のことそのボスである社長と彼のガールフレンドが密会しているところを彼は見てしまった。そのとき一瞬かれの時間が止まった。そして判らないまま彼はボスを刺し殺していた。また彼の彼女も刺していた。ぼーぜんとたっているところに警察が来て彼を逮捕したのである。その後、裁判が進んでいったが、フィリピンと台湾には国交が無く(日本政府も国交がない)ちゃんと言葉のわかる弁護士も付けられず裁判は進んでいった。悲しいかな彼の父は親戚からお金を集め中国系のフィリピン人の弁護士を台湾へ送り込んで裁判に臨もうととしたが、その弁護士にもビザが出なかった。結局約一年後には死刑判決が出ていたのである。

テキスト ボックス: 台湾国内でのフィリピン人出稼ぎ労働者。定期的に皆で集まって様々の行動計画が企画されている。


新聞を読んだ後に何か胸が痛んだ、心が動いた。直感的に行動しなければいけないと思った。妻のアイダと相談し、華僑(フィリピン系)のリンさん夫婦(どちらも医者)に電話した、またフィリピン出身のカトリックの神父(ファーザー ヒル)とアメリカ人の(シスター リタマリー)を誘って早速中央刑務所に行った。監視官は少し驚いた様子だった。外国人数名がフィリピン人の死刑囚を尋ねにきていることを所長に電話をかけているようだった。その内に中へ通してくれたが、真直ぐに所長室へ案内された。そこはそれは豪華で綺麗な応接間があった。間もなく所長が現れた。何と彼は英語で挨拶を始めだした。一般的には台湾でも日本同様に英語を話す人は非常に少ない。恐らく台湾のインテリであるに違いない。また話し方がとても穏やかであった。直ぐに私たちがそのベンジャミンに会いに来た目的を判っていただき、直ぐに面会の場所に案内してくれた。まず荷物検査、差し入れにババナやお菓子を待って行っていたが、『ちょっと待って下さい』止められて中に入っているバナナはナイフで半分に線を入れられた。中に何かないかを調べたのである。その後、鉄格子の向こう側にベンジャミンが現れた。私たちはその姿を見て驚いた。

 頭髪が真っ白でやせ細った老人がそこには立っていた。彼は37歳のはずである。この数ヶ月の間、彼は死刑になることを知っていたしそれが執行されるのが早いことも。台湾では多くの死刑が執行されていた。(91年当時)そのため彼は恐怖のあまりに何も食べていなかったようだ。またその苦悩がこの数ヶ月を数十年の年月を過したかのように思えたのだろう。彼は年老いて疲れはてていた。わたしたちは先ず、タガログで『コモスタ』元気ですか?と尋ねたが答えはなかった。みんな一生けんめいに会話を試みるが彼は手で耳をふさぎ聞こうとはしない。そこでフィリピン人の神父がロザリオの祈りを唱えようと皆で小さな声で祈り始めた。その時彼が黙って耳をすませていたような気がした。その後差し入れの品を看守に手渡した。ベンジャミンは看守に付き添われて中の部屋へ消えていった。

テキスト ボックス: 台湾でのボランティ活動で中心になっていたメンバーの方々アメリカ人のシスター、華僑の医者夫婦、フィリピン人神父と烏山夫婦。


 その後医者で友人のリンさん夫婦と協力して台北にあるフィリピン台湾友好協会(台湾国内においての民間大使館みたいなもので日本政府も国交が無いため友好協会が台北にある)へ連絡をとり何とかベンジャミンを救ってくれと嘆願したが国交が無いことや彼ら『職員』の自由に使える交通費や経費が無いこと等様々な理由を言われ、動こうとはしなかった。われわれは待つしかなかった。でもその恐れていた日は直ぐに来た10月20日の午前8時頃に皆で出かけていった。これは下町近くの刑務所(上記の中央刑務所とは違う場所)で死刑が執行されることを前日に交流協会を通して知ったからである。彼、ベンジャミンはすでにその日の午前5時半に天に召されていた。私たちは死体を引き取りに遺体保管場所に行って彼の遺体を引き取りに行った。これは以前彼をお墓に埋める約束を政府の役人と約束していたからである。それは政府の決めた墓で火葬をし、他の死刑囚や刑務所で亡くなった方々と一緒の墓石に入るとの事であり。将来機会在ってベンジャミンの家族が尋ねてきた時に、ベンジャミンのお墓がないと少し寂しいだろうと思ったからだ。遺体安置所に着き、ベンジャミンを見たときに本当に小さなおじいちゃんが横たわったまま眠っているようでした。頭と心臓の辺りに各一発づつのピストルの通過場所がハッキリと見えた。でも祈りながら私たちはベンジャミン良かったね。きっと懐かしいフィリピンの青い空と海を見ながら白い浜辺で彼が笑っているような気がしました。葬儀のあと私たちには何とも言えない(爽やかな風が)吹いた・・・・・・。 彼はセブ島出身だったと後で聞かされた。

テキスト ボックス: 台湾のカトリック教会(塩水教会)東洋と西洋の合体で素晴らしい壁絵である。


 その後台湾駐在も5年近くになり、そろそろ日本本社に戻る頃になって、毎晩、心の中の誰かが呼んでいるような気がして気になっていた。このまま本社に戻りまたサラリーマンとして暮らしていくことはそんなに難しいことではないけれど、もう何か止められない心の中の叫びが大きくなるのをわたしは抑える事が出来なくなっていた。その時に自然と出てきた言葉が『生きることは愛すること』と言うとっても単純、明瞭な生きることへのメッセージだったのです。そしてその夜、夢の中でフィリピンの子供たちのために生きてみなさいとという声を聞いたような気がした。もう翌朝には本社宛に辞表を書き終えていました。

②奥浦慈恵院(五島列島

 私は1981年に青年海外協力隊に参加した。その後、任地であるダバオーオリエンタル州出身の妻アイダ(現ハウスオブジョイ院長)と結婚した。当初は東京での生活、その後、海外赴任をして徐々に生活は安定して行った。娘も結婚後9年目に授かり、アイダにとっては幸せの絶頂の様に思われていた。台湾駐在中には毎週ボランティアでフィリピン人のためにも多く働き、経済的にも多少余裕が出てきたところであった。そんなアイダにとっての幸せの中で突然、夫(逸雄)が会社を辞めたいと言いだし、そして孤児院をフィリピンで始めたいといい始めた。彼女の目の前は真っ暗になった。折角こつこつと貯金していた僅かなお金があったが、それは彼女が日本へ帰国後の新築の敷金にしようと思っていたもの、それだけで養護施設が出来るわけででもなかった。そんな思いのまま95年の春が来て、長崎港からフェリー五島に乗って長崎の稲佐山を見つめてアイダは涙が止まらなかった。一歳になった娘の恵理花を見つめて、これからの生活を考え不安でたまらなかった。五島は福江島の端に小さな養護施設、白い二階建ての奥浦慈恵院はレンガつくりの堂崎天主堂を見つめるように静かに建っていた。奥浦慈恵院は今から約130年程前にフランス人宣教師(ペルーと マルマン)によって創設された養護施設である。日本も江戸時代から明治へと以降したがまだ明治6年までは宗教の自由が無かった。特に五島列島には宗教の自由を求めて長い月日をかけて本土から隠れキリシタンが移り住んでいたが、生活は非常に貧しいものであった。そんな環境の中でも子沢山であり、その当時はあまりにもの貧しさで生まれ子供を間引き(作物の間を間引くこと)と言って生まれて直ぐに生き埋めにして口減らし(殺人)をこの日本の各地で行っていた。つい最近の話である。豊かな現在の若者には信じられないことであると思われるが。当時、捨てられようとしていた赤ちゃんたちをフランス人の宣教師やそのお手伝いをしていた若い女性達(後の女部屋からお告げのマリア修道会)が小さな家に集めて介護を始めた。これが奥浦慈恵院の始まりである。

テキスト ボックス: 奥浦慈恵院の子供達と当時は約30名の子供たちが一緒に暮らしていました。4歳から18歳までの子供たちが居ました。前列右 烏山


 私は二年間、勉強をかねてここで働かせてもらうことになったが、ここでの貴重な体験が後にハウスオブジョイの運営やスケジューツ作製に大いに役に立つことになる。日本の養護施設の問題はフィリピンのそれと少し違う、先ず、職員の給料も含め運営資金はほぼ100%が国や県からの補助金である。また日本では要するに経済的な理由というよりも愛情問題のもつれやその不足が子供たちの根底に流れていて、子供たちの多くが心の中に大きな傷を持って生活している。概して外目には素直な子供は少ないようだ。またあまり心をオープンにしてくれない子供たちが多いようだが、ハウスオブジョイの子供たちは底抜けに明るく、オープンである。(見えない部分では多くの苦しみを経験しているが笑顔を忘れていないのは感動である)

 『健太、お前ちょっとぐらい勉強せんね』と私が叫ぶ『したってぜえんぜえん分からんばい』と言い返す。慈恵院に勤めて一年がたったころ健太は中学3年生になっていた。来年高校受験だ、日本の養護施設も18歳まではいることが出来るのだが、高校に入れなかった場合や職業訓練校に入らない場合は就職して養護施設を出なければならない。だから私は何とか健太に高校の試験に受かって欲しかった。夏休みなり慈恵院の下は真っ青な海である。多分、南国のどの海よりもきれいな海がある。慈恵院では毎日二時間ほどその海で泳ぐ。子供たちは泳ぎがとても上手である。その中でも健太が中心的存在だ。私は監視のためいつも彼らについて行く。きれいなこの海にはサザエも沢山いる。健太は毎日10個ほどは採って帰り、食堂のおばちゃんシスターに手渡す、すかさず『すごかねー 健太』と言う声に健太はニコッと微笑む。いつもの満足げな顔、でもその後は受験勉強が待っている。勉強部屋に入ると眠りに入る。私が入っていって『勉強しよっとねー』と尋ねると嫌そうに起き出す。

テキスト ボックス: 慈恵院の二階の窓から五島の島々が良く見える。日本最西端で見える日本で一番遅い夕日である。


一緒に勉強しようと誘い、簡単な勉強から始める。要するに中学一年からの基礎が分かっていないのだ。本当に簡単な事が分かっていないから、直ぐに眠そうな顔に変わる。そんな時に協力隊時代に経験したフィリピンの人々の話をすると健太も起きだし、目が輝く、私の心も熱くなる。こんな時間が私も健太も一番好きだった。しかし成績は伸びていかなった。

 翌年の受験の日、健太は緊張していた。正直に言ってそんなにレベルが高い高校ではないから(たぶん定員割れしていた)と思うがしかし祈る思いで健太を送り出した。帰って来ると、とっても元気である。安心した。『どーやったとー』と聞くと『まーまー』と答えた。良かったねと二人で笑った。結果発表の日健太は歩いて福江市内まで行くという約5キロくらいの道のりである。『バスで行ってよかとよー』といっても何かそわそわしていた。それか午後まで健太は帰って来なかった。落ちていたのである。そしてその春に福岡のラーメン屋で就職が決まり働くことになったがその後はそこも止めて今はどうなったのか分からない。『健太頑張っているか。あの夏の日にサザエをとって笑った健太でいまでもいて欲しい』あの時の烏山先生より。

テキスト ボックス: 慈恵院の皆さん二年間お世話になりました。フィリピンへ行っても皆さんの為にもお祈りします涙でレンズも曇りました。


                     烏山記

                   次回号へ続く フィリピンへ旅出す。

 ミンダナオへ  (2月16日 06年 記)

 1997年3月末に家族3人で、ここフィリピンはミンダナオ島に移り住み、ハウスオブジョイ(歓びの家)という孤児院を建設した。出発当初は土地の購入、建設費、食費や手伝いのおばさんへのお手当て等で出費が続き、日本から持参して来た貯金は底を尽きようとしていた。妻で院長のアイダは相変わらず孤児院を運営することに大きな疑問を持っていた。『お父さんやっぱり早すぎたのね』と肉体的な痛みと生活の不安とで苦しんでいた。そんな時、烏山は当時16名の子ども達と(現在44名)近くの教会に『翌月のお米が在りますように』とお祈りしたことも懐かしい思いでとなった。実にタイミングというものは不思議で、ちょうどその頃から長崎県五島市の方々でハウスオブジョイ(歓びの家)を支える会が結成されて、また全国各地の多くの方々からご支援やお恵みをハウスオブジョイへ頂くことになっていく。静かに思うと『御天等さま』はタイミング良く見ているものだとその時に芯から思った。

テキスト ボックス: 97年5月の写真、子供たちの後ろに見える辺りが、現在二階建てのハウスオブジョイが建っているところです。


ハウスオブジョイに入ってくる子ども達はフィリピンの貧しい人々の中でも特に貧しい子ども達が殆どで、実家に食べ物が全く無く、両親から見捨てられて三日間も何も食べずに兄弟で山をさ迷い、まだ熟れていない青くて固いバナナを他人の畑からもぎって逃げては食べ、何とか生きながらえていた子供たちや、お母さんが知的障害を持っていてお父さんのいない子供たちで栄養失調で動けない子供たちなのです。ハウスオブジョイに入って来て最初に子ども達にしてあげる事は、虫下しの薬を飲ませてあげたり、不足している栄養を補うビタミン剤や粉ミルクを飲ませてあげたりすることからはじまる。

でも物質的には本当に貧しい中で育って来たにもかかわらず、心の中はとても豊かな子供たちである。満面の子ども達の笑顔を見るときにふとこの子供たちは『天使』ではないかと思う瞬間がある。貧しいことは本当に悲しい事だけれども愛の優しさと強さを垣間見るときは実に幸せって『こういうものかなー』と熱い灼熱の太陽の下に爽やかな風が吹く。

      

④ジェシー君との出会い

ハウスオブジョイを始めて半年位たったある日、メリノール会(アメリカ宣教会)のシスターから一人の男の子を引き取ってほしいとの依頼を受け、彼女が運営するアワーレヂィー オブ ビクトリーという、足に障害を持っている子供たちの施設に会いに行った。片足と片手が不自由で何とか自身で歩ける様子であるが、彼(ジェシー君)がここまで来る過程はあまりにも凄まじい過去が在ったことを知らされて驚いた。

お父さんはモスレムの戦士、戦争で捕まり服役していた。お母さんはその直後に彼を置き去りに蒸発した、フィリピンには各地域にDSWD(社会福祉局)という行政の機関があり、路上生活の子供たちや虐待を受けた子供たちを一時預かりする機関はあるにはあるが、その施設の数と予算があまりにも少ない。そいう訳でジェシー君はサマール島(ダバオ市の向かいの島)の遠い親戚の叔父の所に預けられた。でもその叔父は子ども嫌いであった。叔父は、最初は家の中の土間においていたが、(家といっても電気も無い竹で出来た小さな小屋である)ジェシー君がウンチ、オシッコも垂れ流しをするため、彼を家の外で、犬と同じ場所で育てるようになっていた、その当時、ジェシー君は生まれつき両足と片手が不自由であった。だから外を這い回って生活していた。彼は人間としては扱ってもらっていなかった。ジェシー君は犬の餌を分け合って何とか生きていた。 

テキスト ボックス: 右がジェシー君97年末当時、また、左が一般的な人々の住宅。 テキスト ボックス:


そこへたまたまマザーテレサの会(ミショナリー オブ チャリチー)のシスターが通りかかり、その叔父に頼みジェシー君をダバオ市内(マティナ地区)にある修道院に担ぎ込み看病して下さった。彼は生き返った。何とか人間として生きることが出来るようになったが、まだ両足と片手が不自由で歩けなかった。そこで医者でもあるアメリカ人のシスターが運営するアワーレヂー オブ ビクトリーという施設に入って手足の治療(二回の手術)を受けた後、ハウスオブジョイに話が来た。正直に言ってその時には難しいとアイダと話し合った。ダバオ市内にある事務所件自宅にジェシー君を連れて帰り様子を見ることにした。そうするとやっぱり、ウンチや、オシッコをあちこちに垂れ流してしまうのである。これには困った妻は目に涙をためて雑巾で掃除をしながら『お父さん、私には無理、この子一人の為に一日中の時間が割かれるわ、自分の娘の面倒も見られなくなるは』と叫んで、この子を返そうと言う事になってシスターの所に戻そうと思い施設に連れて行くと施設の規定で一度退所した子供は戻れないということだった。施設では市内の貧しい人々が住む(ササ港地区)の叔母の家の住所を手渡してくれた。そこもわたしたちの自宅から直ぐ近くだったので、ジェシー君、妻と三人でその叔母の家に行った。そして必要な書類に嫌々ではあるがサインをしてもらった。そしてジェシー君に『さよなら』と言った時にジェシー君は大きな声をあげて泣いていた。私も妻も身を引き裂かれそうな思いがあった。子供たちとの出会いや別れはわたしたち自身の心や身が痛むことがある、生きることは誰かのために身も心も痛むことである。

 その夜、私も妻もジェシー君の事を思い中々眠れなかった。翌朝早く妻も私も同時に彼の事が気がかりで気がかりで『見に行こうか』と妻に言った。そして叔母の家に行ってみると、案の定、パンツもはかず外に放置されていた。それを見て妻がまっしぐらに彼の足元にひれ伏して、『ジェシー、ごめんね』と謝った。それは、寂しさに怯え、空腹に耐え、人の愛情に見はなされた悲しい『彼』だった。

 その彼を抱いた瞬間、妻の体が急に軽くなり、体中の発疹が消えていた。それと同時に妻はこの子供達と一緒に生きていこうと初めて心の底から思った。

⑤パン一つの不幸

 レベリエッサファミリーは8年半前にハウスオブジョイにやって来た。まだハウスオブジョイを始めて間もない頃であった。先ず、当時小学6年生(現在22歳でマニラで就職)の長女エレンジョイがアイダのところへやって来て、シクシクと泣きながら『兄弟姉妹で一緒に住みたい』と嘆願した。その理由はこの町に住む人は誰もが知っていた。その経緯は実に悲しい、凄まじい事件が彼女たちの家族に起こってしまったのである。96年の年末に近い午前中にお母さんは自分の経営する小店(サリサリストアーと現地では呼ぶ)でいつものように、コーラとかタバコ等を販売して家族の生計を支えていた。その日、地方政府雇いの警察官が朝からお母さんの小店でパンを買いにいつものように来ていた。その日も相変わらず、付けでパンを買いに来ていた。その時お母さんは朝から特別気分が優れなかった。お母さんは言った。『今日はお金をちゃんと払ってもらうよ』と、その警察官に詰め寄ったが。警察官は『パン一個ぐらいいいじゃないか』とこちらも相変わらずの返答をした。でもお母さんはその日ばかりは引こうとしなかった。それに対して、警察官が脅しのつもりで『ライフルを持って来てこの店を吹き飛ばしてもいいんだぞ』と冗談に叫んだ。

その時お母さんは『やれるもんならやってみな』と脅し返した。それを聞いて警察官はかっとなり キレタ、自分の家へライフル銃を本当に取りに帰ってしまった。そして戻って来て。 時間が止まった。お母さん目掛けてライフル銃を乱射し始め、二階にいたお父さんも何事かと思って降りて来たところを撃たれて犠牲になった。又お母さんのおなかの中にいた赤ちゃんも殺されてしまった。その他二名の近所に住んでいた人たちも犠牲になった。その後、直ぐに廻りの男たちによってその警察官は取り押さえられた。幸いな事にその時4人の子供たちは学校に行っていたのだが、長男のジェニーボーイだけはいつものように、教室を抜け出してその事件のことを知り、家へ走って帰ってその血の海の惨状を見てしまった。それ以来、彼は時々フラッシュバックを繰り返している。 またその当時5歳だったラブラブちゃんも今は13歳の高校二年生になる。

その後4人はおばあちゃんの家や親戚の家で分かれて暮らしていた。長女のエレンジョイは近所の家で朝、4時に起きて、炊事、洗濯を手伝った後小学校に通っていたが、4人は夕方になると両親のお墓にロウソクを灯し、ながーい間お祈りをしていた。その小さな村(タリサイ村)の人たちはその祈る子供たちの後姿を涙しながらいつも眺めていた。

テキスト ボックス: 右が97年ハウスオブジョイで入所当時、上の二枚は現在のラランとラブラブテキスト ボックス: 右が97年ハウスオブジョイで入所当時、上の二枚は現在のラランとラブラブ


 そんな時に長女のエレンンジョイがアイダに4人で住みたいと嘆願したのである。その後、4人を受け入れた日の夕方に変わった事が起きた。一番下のラブラブちゃんが夕食を食べて外で遊んでいると、突然、泣き出して 『お母さん、お母さん』と叫ぶのである。みんなには何も見えないし、聞こえはしない。でもラブラブちゃんは市場に向かう道を走り始め、空を見上げて『お母さん、お母さん』と叫んでいたが50メールほど追ったところで止まって、ぼーぜんとして立っていた。 時々、人には見えない霊のようなものが在るかも知れないとハウスオブジョイを始めて以来思うことがある。

⑥卒業後の生活を思う

 ハウスオブジョイがスタートして9年が過ぎて、多くの卒業生(18名以上)を出しているが、卒業後の就職難と女の子たちが次々と妊娠、出産を繰り返すことが気がかりだ。実に卒業した女の子たちの8名中7名が子持ちであるが、その内の1名のみが正式に結婚しているだけで後の子供たちには定職を持った配偶者がいない。やはりこれはハウスオブジョイでみんなで共に楽しく生活して卒業した後の開放感と同時に寂しさや生活苦などに陥ったときに、どこかで暖かい家族にあこがれて人を恋しくなるのだろうか?  一方男の子たちも就職の面ではフィリピンでは大変である。日本で言う就職難と難が違う。仕事が本当に少ないのである。国民の10%が出稼ぎにでている国である。なるべく子供たち全員に少なくとも高校までは出て欲しいが、本人の願いと成績が共合わない場合も多いし、またハウスオブジョイに入って来るときの年齢が高いと、どうしても18歳で小学校を終えるのが精一杯のケースも多々ある。

日本の経営者の方々や良い知恵のある方どうかお助けください。

                             続く

  今回のヤンキーとコギャルには写真(日本人)の展示はいたしませんので想像して読んでください。  (2月 24日 06年 烏山 記)

⑦ヤンキーもコギャルもやって来る

 ハウスオブジョイには世界各地からいろんな方が来られる。(日本から来られる方が一番多いが)アメリカのイリノイ州からは現役のピエロ(クルッゾ)さんやノルウェーイからは長身の自転車の選手(ハンズ)さんスコットランドからは船乗りのリチャードやインターナショナルスクールの先生(デビット)さん等々、年間、200人位の方々が訪問してくださる。その中でも日本からのコギャルとヤンキーの訪問にはハウスオブジョイのある町(サンイシドロ)全体が驚いた。

テキスト ボックス: 写真右からハンズ、ジャイソン、デイビット、ピエロテキスト ボックス: 写真右からハンズ、ジャイソン、デイビット、ピエロ


 あまり聞きなれない学校、サポート校(補習校)と呼ばれている塾制の学校が東京や大阪などの大都市の近郊にあり、登校拒否とか授業崩壊等を起こした子供達等が、大学受験資格をとるために学んでいる学校である。基本的には学生達は何をやってもよく、授業が嫌ならいつでも教室を出て行っても良いと言うような仕組みになっている。まあ現在の日本では何でも手に入るし、友達が居なくてもテレビゲームやコンピューターで仮想の友達まで作れる世の中だ、仮に学校に行きたくない子供たちが増えるのも分かるような気がするが、実はダバオ市内にある日本のNGOの紹介とインターネットで一人の先生がハウスオブジョイのホームページを見て(http://www.bonchi.jp/joy/)興味をもたれた、実は彼も(烏山同様)協力隊のアフリカのOBであった。優しい長渕の歌が好きな先生だった。

彼らが9時くらいに到着すると聞いて待っていたが中々現れなかった。ダバオから車で約二時間のところにハウスオブジョイのある町、サンイシドロはある。 10時になっても11時になっても彼らは来ない。みんながハウスオブジョイの外の道で待っているので、バイクの運転手(タクシーみたいな乗り合いバイク)まで、誰が来るのか一緒に待っていた。そしてお昼前になってやっと二台のバンがやってきた。遅れた理由が夜明けまでマージャンをやっていて朝起きられなかったのがその原因である。彼らがバンから降り立った瞬間、そこにいた誰もが口をあけて、驚きの声をあげた。近くにいたバイクの運転手達は『イッチャン』(烏山のこと)『この人たちは何人?』と聞くのである。男子の学生が5人、女子の学生が4人、また引率の先生4人にフィリピン人の運転手と通訳の方が2名であった。その学生の姿は噂に聞いている。コギャルとヤンキーだった。(背も高く、現代風美男、美女?!!!である。髪の色は金、銀、銅、に縞模様もあり、まさにオリンピックのメダルのような色トリドリである。スカートは超ミニに高―い下駄のような大きな靴。今まさに原宿や渋谷の町をそっくりそのままこのサンイシドロに持ってきたような『感じ』 『ていうーかー』。現地のフィリピン人にはこの学生たちがどう見ても日本人には見えなかったのだろう。でも地理に全く詳しくないバイクの運転手が『カナダ人じゃないか』あたりでみんな納得したが。彼らには日本やカナダましてはアメリカがどこにあるのかよく分かっていない。フィリピンの地理の授業を見てみたいものである。また女生徒の顔はアイシャドーの色がチカチカと光っている。また立派な着け睫毛もしているし顔を黒くしている子もいた。また車を降りて、その中の一人が1㍑入りのコカコーラを近くのサリサリストアー(小店)で買うと、次々と安心したのか大きなコカコーラを買って道の真ん中に座って飲み始め、一人の男子が花札を出して道端で始め出した。そこであわてて、烏山が早速歓迎の準備に移って家の中に皆さんをさそい入れた。早速、ハウスオブジョイの簡単な説明に入り、烏山からの挨拶『皆さんよく来てくれました。ありがとうございます』等々と話が続き、ハウスオブジョイでは『見える行動で見えない愛を表現したい』をモットーにと言うところで、銀の髪の生徒がこのオヤジ『変』と叫ぶ、人生は『金、金、金』と呟くのが話している烏山に聞こえるように呟く、その後も多少の説明があったが受け入れ側(ハウスオブジョイ)のスタッフに異常な違和感が走る。話を早々に切り上げて昼食にするが。ここで後に大問題となる発言が飛び出す。『頂きます』と引率の先生が言うと直ぐに、また銀の頭が『まずい、』と叫ぶ、アイダが時間をかけて作った海老いりスープを『くさい』と叫ぶ、一生懸命に作ったハンバーグを一番まずいハンバークと言って美味しそうに食べている。また『先生、ケチャップないの』と聞いた後キェチャップを出すと、ハンバーグにいっぱいにかけて食べている。この時、アイダは黙ったまま外へ出て行った。引率の先生は駄々ひたすらに謝りつづける。フィリピン人の通訳は真っ赤な顔になり、『もう帰れと』現地の言葉で呟く、それからどうなるのかと、とっても険悪な雰囲気にその場はつつまれた。しかし、その日の内に高校と小学校の見学が予定されていたので『高校と小学校とどっちに行きたい』と聞くと応えない、よく考えて見ると高校生だと年が近いのであまり行きたがらないようだと優しい先生が説明をする。結局は全員、小学校に行く事になる。学校に行くときにもなぜかコカコーラの1㍑ビンを飲みながら歩く、学校に着くと小学生 1,400人が彼らを運動場の真ん中で迎える。小学生たちが大きな輪になって日本の学生を取り囲む。その時に何か勘違いが始まった。ある小学生の女子生徒が『スパイスガールだ』と叫んだ、その後みんながノートとボールペン(近くの家にカメラを取りに帰った子もいたが)を走って教室にとりに帰り、サインをもらおうと必死である。日本国内では経験したことない大騒ぎである。ちょっとしたスターだ。コギャルの一人は(アンアンノンノン)に一度載ったことが彼女の自慢だが、みな気分がとっても良いのだ。引率の先生方もこんな生徒たちのやさしそうな笑顔を日本で見た事が無いといいながら嬉しそうに『親御さんのために』とカメラで連続撮影をする。小さな勘違いから始まったこの事件。その日の内についには(スパイスガール???)の追っかけが出てくる。午後にシャロムハウス(海辺にあるハウスオブジョイのゲストハウス)の下で泳いだり小船に乗ったりしていると、(女生徒のすごいビキニ姿をこの町の男達は始めてみるムービースターのように溶けるように見ていた)追っかけのグループが船でついて来てサインを求めている。コギャル、ヤンキーの気分はもう最高だ。口々に『フィリピンて、ちょっとイージャン、て言うかー』。とか話し始めている。なんとその顔が普通の17才の笑顔になっているのである。その可愛い顔で現在の日本の流行や歌等を教えてくれる。時間があれば皆『クラブー』に行くそうだ。私の時代ではクラブーはサッカー部とか野球部だったが、この女子学生はなんか違うことを話しているのだが、海外に長く住んでいるオジサンにはコギャルの会話があまり理解出来ない。困ったもんだね、同じ日本人でも話している内容が良く分からない。多分、英語の方が分かるかも知れないと、真剣に悩んでいる自分にはっとする。

翌朝の朝食後にお別れ会の時が来た。来た時と雰囲気が全然違う。烏山から『いろいろと在りましたが』無事に楽しく過ごせました。今でもハウスオブジョイでは『生きることは誰かを愛するためにあると思っています』といっても誰も文句を言わない。来た日とは何か雰囲気が違う。アイダと一番年上のエレンジョイ(当時17歳)が何かを話しているのが聞こえてくる。要するに言いたい事があり彼らの帰る前に自分の思っている事を二人で話そうとしているようだ。すかさず私が『この生徒達に何を話をしてもむだだよ』と呟くと同時にこの生徒たちが怒ると怖いだろうなーと心で思うが、アイダは『私は言うよ』決心しているようだ。そして最初にハウスオブジョイの子供を代表としてエレンジョイの別れの挨拶、『今度ハウスオブジョイに来るときにはそんな厚化粧をしないで来て下さい。私もあなた達と同世代です。でもシンプルなものが一番きれいだと思います。また若いのにそんなにタバコを吸わないでください』と言いながら泣き崩れる。言葉が言葉にならない。そこでみんなが『もういいよ』と彼女を抱きかかえて後ろに連れて行く。さあー最後はアイダの番だ、みなが緊張している。『最初に言って置きたい事があります』と日本語で始まった。 最初の昼食会のときに私が一生懸命に作った料理を『まずい』とか『くさい』とか言った人がいましたね。私はとてもショックでした。ここフィリピンは確かに貧しい国かもしれませんが、そんな言葉を言って人を傷つける人はいません。それは人間の心もった人の言う言葉ではありませ。誰かが時間をかけて一生懸命尽くしたことに感謝できるようになったらいつでもまたあなた達を歓迎したします。人間の心をもって今度は帰ってきてください。あなたのお母さんやお父さんの気持ちが良く分かります。どうか人を傷つけないでください。と言い終わろうとしていると、みんなが下も見つめてシクシクと泣き始めているのである。女子生徒はハンカチをあて、男子生徒は下を見つめたまま、また引率の先生も通訳の方もハウスオブジョイの子供達もみんなが泣いて泣いて泣いた。

その後直ぐに車にのってダバオへ向かう予定であったが、中々みんな車へ乗らない。まだ、涙ながらに子供達と抱き合っている。最後に銀の頭の彼が烏山の前にすっと立ち、自分の胸を叩いて頭を深深と下げた。心を入れ替えて出直しますと言う意味だとそのとき私は思った。

⑧キッドとドの物語

 ハウスオブジョイを始めてまだ間もない頃に近くの町(ルポン)にアイダが買出しに行った。その時にバス停の近くでぼろぼろの服を着て、寝ている少年を見つけた。少年はとても疲れた様子だった。『どうしたの』とアイダが尋ねると、ゆっくりと起き上がった。よく見ると片方の足が不自由のようである。そして異常にやせていた。骨が浮き上がって見えていた。そしてここに至るまでの事情をゆっくりと話し始めた。名前はキッドで出身はダバオリエンタル州の州都のマティというところで、ご両親と8人の兄弟姉妹で暮らしていた。彼はそこの長男であった。キッドは体が不自由なためあまり仕事手伝えなかった。キッドはその当時16歳であったが、一度も学校に行ったことがなかった。実は一週間ほど前にお父さんと喧嘩してひどく殴られた。(お父さんはアル中で一日中仕事もしないで酒を飲んでいる)また若い頃は薬物中毒でもあった。彼は子供たちの稼ぎで生きていた。殴られた後にキッドは近所にいる警察のおじさんの所に相談に行くと、『お前は家を出たほうが良い』と言われた。『長くいるとおとうさんから殺されずぞ』とおじさんは付け加えた。そのときお父さんはアル中の禁断症状が出ていて、子供や彼の妻にも暴力をふるっていた。

テキスト ボックス: キッドの葬儀


キッドは夜中に家を出て、知り合いのバチェラー(長距離バス)の運転手に頼んで大都市のダバオまで乗せてもらった。ダバオに着いたものの行く宛などない。大都市といっても足の不自由な少年に易々と仕事が見つかるわけも無く。約1週間さ迷った。何も食べずただ歩いた。お腹がすいてふらふらとしながらダバオのバス停にまた戻り、知り合いの運転手を探したが見つからなかった。しょうがなく物乞いを始めたが、そこには他の物乞いの縄張りであり直ぐに追い出された。良く観察するとストリートキッドもその他の物乞いもちゃんと縄張りがあり、小さな子供を小道具にしたり、目が見えない人のような格好で歩いて見せたり様々である。また信号がある交差点は彼らにとって一番の稼ぎ場所だ。話はそれたが、キッドはもうだめかと思ったときにあの探してた知り合いの運転手に出会った。そして、マティ行きのバスに乗せもらった。しかし、マティが近くなるとあのお父さんの暴力の恐怖が甦ってきて40分ほど手前の町の(ルポン)で下りた。そして眠っていたところをアイダから声をかけられた。その後すぐにアイダはキッドをハウスオブジョイに連れて帰ってきた。私は『この少年だれ?』と聞いた。アイダが笑いながら昨日、話していた内容『覚えている』と聞いた。昨日の夕食の時に、今度ハウスオブジョイに入る子供はどういう子供かなと話しているときに、アイダが片手を横に伸ばして『そうねこれくらいの男の子かな』と冗談で言っていたのがこのキッドがちょうどこれくらいの身長だったのである。時として人との出会いは予感どおりになることがある。それでアイダが『これはきっと神様が連れて来たんだわ』と言ったのである。私はなんだか(狐につままれたようだった)が『ふーん』と納得した。時としてアイダは私以上に決断力がある。殆どの子供たちがハウスオブジョイに入る場合、アイダが決定する。その基準は至って明瞭である『このままほっとくと近い将来死ぬだろう』ということだ。キッドも片足が不自由なために一歩歩くたびに片手で一方の足を支えて歩かなければいけない、大変だ。キッドはお腹がとってもすいていたがご飯を出してもそれを上手く食べる力がない。お汁につけてスプーンで少しずつ食べさせてあげる。その後ルポンの町に降りた経緯を聞いた後に、取り敢えずハウスオブジョイで生活することに決定する。キッドは学校に行った経験がないため、字がかけないし、読めない、小学校に相談に行き、2週間後から一年生と一緒に勉強できることになる。小学校に入る時の手続きで出生証明書が必要になり、1週間後に実家のあるマティに行った。フィリピンでは出生証明書のない子供たちが多くいる。理由は申請時、多少のお金がかかることや正式に結婚していないため等、ただの怠惰な両親であるための理由も多い。政府も年に一度無料で申請を受け付けるが時があるが、40歳になる方が出生証明書を作りに来たりする。どう見てもこの国の人口は政府の発表よりも数パーセント高いと思われる。マティの町に入るとキッドは不安な思いになった。お父さんが怖いのだ。彼のうちは州立大学の近くと聞いていたがそこには家がない。『キッドどこに家があるの』と聞くと『あそこ』と答えた。良く見るとイピルイピルいう細い木の向こうに(国道から30メートル入ったところに)ビニール袋で覆った小屋(崩れたテント)が見えた。細い曲がりくねった道を歩いて行くとそこには小さな妹や弟が確かに7人いる。またお婆さんも黙って小屋の隅っこに座っていた。おとうさんは昼間なのに酒をのんで眠っている。その中でも服も着ないで背が大きく曲がった子供が気になった。名前を聞くと応えない、後で分かったがひどい難聴者で名前を(ド)と言うことが分かった。 キッドもこの背の曲がった(ド)の事が気になっているようだ。彼らは雨が降ると夜どうし起きている。雨が直接入ってくるので冷たくて眠れない。その広さは畳一畳ほどしかないし、晴れている夜は星がきれいに見えるくらい酷い家であった。(ド)はトカゲも蛇も怖くない。いつも一緒だからである。他にもいた子供たちもまともに服を着ていないし、トイレもない環境でかわいそうである。一緒に付いてきた日本の大学生がカメラを片手に泣いている。想像以上に過酷な環境でこの子供たちは生きているのを見て耐えられなくなったのだ。結局、出生証明書がある筈もなく、(ド)を始め、5人の子供も一緒にハウスオブジョイに連れて行くことになった。(ド)は難聴なので補聴器をダバオで買ってあげて、初めてそれを使った時にはあまりに音が多きく聞こえるので(ド)は驚いて飛び上がった。その後キッドは小学2年生まで勉強して18歳で故郷へ帰って行ったがその後、結核で24歳の若さで天に召された。亡くなる10日ほど前に、病院にキッドを訪ねた。キッドは大きな声で叫んだ『アンクルイッチャン死にたくない』一緒に泣いた、もうどうすることも出来なかった。自身の無力を感じた。ハウスオブジョイでは薬の購入費としてキッドに渡していたお金が、実はお父さんのアルコール代に化けていたことが彼の死後分かった。葬儀もハウスオブジョイの中の予算で捻出しなければキッドのお棺さへ買えない酷い状況であった。その後(ド)も卒業して傘の修理や靴の修理でおとうさんやお母さんを支えている。フィリピンの子供は実に良く親、兄弟姉妹のために働く、日本で多くのフィリピンの女性がパブ等で働いているのはこのようなバックグランドがあるからだ。決して自分のために日本へ行くのではない。日本の援助交際とは根本的に動機が違う。でもそれに慣れてくると南の国から出稼ぎに日本行きを繰り返すうちに、日本の若者と同じようにその動機もすれてフィリピンに帰ってくる。一体日本で何が根底を揺るがせているのだろうか。お金の力と上手く生きて行くことをもそれはそれで生きる動機付けになってもおかしくないが、時には損をしてもきれいで華やかな仕事ではなくても誰かのために生きる人生もあっても良いような気がする。?あの(ド)のようにまたあのキッドように彼は自分の命をお父さんの酒代に代えた。?

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